落語家 セール 古今亭右朝の形見!寄席文字家元橘右近(二代目集古庵)作/橘右近 志ん朝 右朝 馬治の4連千社札額と真打昇進口上書(1988)

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【四連千社札額と真打昇進口上書】橘右近・古今亭志ん朝・右朝・金原亭馬治の四連千社札額と「右朝真打昇進口上書のセットである。故人からは右近の作と聞いている。額の大きさは、縦23・5×横31・5センチ。中の白紙の台紙は、縦16・5×横24・5センチ。さらにその中の千社札一枚の大きさは縦14・5センチ×4・4センチである。【右朝より志ん八】右朝の名より、志ん八の方が妙に懐かしい! 私は若い頃、「落語家になって、志ん朝師匠の弟子になって本望ですか」と、志ん八に聞いた。「本当に好きなことは、商売にしちゃ駄目だよ」と、彼はポツりと言った。あの時はその真意がわからなかった。落語と寄席文字の二刀流を、流暢にこなしていた志ん八だった。自らの筆でしたためためくりを披露し、落語を熱ぼく語る姿からは、その労苦を垣間見ることはできなかった。だが、私も老齢の域に入り身障者となった今、古今亭志ん朝と橘右近という、偉大な二人の師匠に仕えて、さぞ気を抜く間もなく、大変だったにちがいないと思えるのだ・・・。志ん八は、入門から十年を過ぎ、いくつもの落語会の賞を総ナメするほど、確かな芸と勢いがあった。だが、真打昇進試験で、とんでもない結果が出た。林家こぶ平(現・正蔵)が合格したのに、私たち落語ファンばかりではなく、席亭からも高く評価されていた志ん八が、よりによって不合格! 言うちゃなんだが、テレビの仕事が忙しくて、寄席の前座時代から寄席をおろそかにしていた双璧が、こぶ平と三木助(四代目)である。そのこぶ平が志ん朝以来の最年少真打とは、私には信じられなかった。日芸同期で落研仲間の高田文夫が、志ん八が芸があまりに上手過ぎるので、噺家の道を断念したのはあまりに有名だ。家元・談志は、こう言い放った。「あいつ(右朝)は稽古つけた噺を、翌日には完璧にこなす技量とセンスがあった。こぶ平は、いつまでも素人口調が抜けず、香葉子の政治力が頼みの綱。あの人間国宝の米朝師が、こぶ平に頼まれて稽古をつけたら、本筋をモノにする前に、噺を勝手にいじって披露。米朝師匠から『あんさんの好きなようにやんなはれ!』と、匙を投げられた」寄席の席亭たちも、さすがに志ん八不合格に怒り、結局、落語協会は追試を行い志ん八を合格させた。落語の精進だけでも大変なのに、志ん八は寄席文字の勉強も怠らなかった。吉川英治の『宮本武蔵』の名場面で、武蔵が一乗寺下がり松の戦いで、一人で多数の敵と闘ううちに、気がついたら二刀流をモノにしていた。志ん八は噺家になってからも、落語と寄席文字の二刀流を堅持し、人の知らぬ所で熱心に稽古していた。昭和63年6月に真打昇進し、同時に『右朝』という最高の名を得た。世間では、橘右近の『右』と志ん朝の『朝』からつけられたと言われた。しかし、今回の出品にお付けした真打昇進口上書を御覧頂ければ、右近の右朝へ期待は更に大きく強かった。右近は『朝』は〝大圓朝〟に通じるとまで厳命し、集古庵は初代・二代と噺家としては大成しなかっただけに、右朝へすこぶる期待してしいたのが感じる。「生やさしい了見では困る。器用貧乏になるな!」とまで厳命している。私が駆け出しの記者だった時に、作家・開高健先生の教えを末席から受けたことがある。先生の明言の一つに「悠々と急げ!」という箴言がある。一方、右朝は、ややもすると内向的になり、ストレスを溜めに溜めた。落語しか話題のない右朝は、時に息抜きして、無理せず生きる術をしらなかった。深酒をはじめ、いくつもの生活習慣の乱れは 、彼の肉体を知らず知らずうちに病魔が付け込んだ。声が出なくなって、初めて医者の診察を受け肺ガンと知らされた。平成13年3月、ハマでの落語会をハネたあと、志ん朝夫妻、現・馬生、主催者の一行で中華街で宴が開かれた。その日、私の愚妻も横にいたので「尻に敷かれるどころか土に埋められそうです・・・」と、師匠に紹介したか志ん朝は、ニタリとした顔で「この野郎、なにノロケているんだ!」言い放たれ、宴席で大爆笑を買ったことは、師匠との最後の会話になったので、よく覚えている。この日、志ん朝は右朝の病について「実はヤバイ状況で・・・」と声を細めた。ちなみに、右朝は翌月の29日に遂に鬼籍の人となる。享年53歳であった。やっぱり、生き急いだことにより、病魔の勢いを加速させたのだ。だが、そう語った志ん朝も、幾分痩せていたが、大病が潜んでいたいたことには誰も気づかなかった。てっきり、糖尿病のための節制と皆が信じて疑わなかった。そして宴席の最後に、師匠はこう主催者に提案し閉めてくれた。「今回は記念の節目、ほかの噺家さんたちが独演会だったのに、あたしだけが一門会で申し訳けなかった。秋にもう一度やりましょう」半年後には、その志ん朝師匠も、63歳の若さであの世に旅立っちまった。死は定めなのか。「よからんは不思議、悪からんは一定と思え」との賢人の言葉もある。あの日から20年の歳月過ぎた。実は私も、志ん朝・右朝両師と同じ大病を患い、今や身体障害者となっても、根っからの落語者として、昨日・今日・明日と奮闘努力している・・・。【古今亭右朝の略歴】(1948年11月2日~2001年4月29日)本名は田島道寛。昭和23年11月2日東京・台東区生まれ。三人兄弟の末で、小・中学校は国分寺市内の公立。都立武蔵高校、日本大学の芸術学部へ進み卒業。大学では落研に所属。右朝が会長で高田文夫副会長。ふとしたことから寄席文字宗家橘右近の門下となり橘右朝。その後、落語家に転進し昭和50年に志ん朝に入門し志ん八を頂戴し、同名で55年二つ目に昇進した。研究熱心な性格と精進の甲斐あり、国立演芸場の花形若手演芸会新人賞銀賞、NHK新人落語コンクール最優秀賞、にっかん飛切落語会努力賞と奨励賞、花形若手演芸会新人賞金賞などを受賞するも、落語協会真打昇進試験では、噺家のキツイ洒落で不合格となる。しかし、彼に目をかけていた寄席の席亭たちの猛抗議もあり、昭和63年6月に真打昇進(落語協会100人目)となり右朝を名乗る。その後も花形演芸会の金賞や大賞に輝く、将来、古今亭を背負う逸材として期待された。真打昇進後、新宿・末廣亭で「こぶ平・右朝二人会」や「右朝・正朝の二朝会」などを開き精進を重ねた。今回、ヤフオクに出品した、この額を見るたびに、志ん朝・右朝子弟の早すぎる死残念に思うばかりである・・・。この額縁も真打昇進の口上書も、ともに良好な「上」の部類の状態だが、とても古いものだ。なお額縁は、作品を保護するための廉価品なので落札された方は、お気に入らなければ、改めて良い額縁に入れて飾って欲しい。送料は当方がサービス負担します。

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